検索結果

タグ検索

世界遺産マニアで“世界遺産”タグの付いているブログ記事

下記のエントリー(記事)が検索結果となります。

宇治上神社

宇治川を挟んで平等院の対岸にあり、平安時代には平等院を鎮守していた隣接する宇治神社と併せて宇治離宮明神とよぱれていたが、明治時代に分離。祭神は、応神天皇、菟道稚郎子、仁徳天皇とされる。境内には本殿と拝殿があり、3つの社殿全体を覆屋で覆った構造の本殿は平安後期の造営で、現存最古の神社建築である。拝殿は鎌倉時代の寝殿造りの様式を残し、特に鎚破罵という手法を用いた屋根が美しい。

宇治上神社への交通アクセス

タグ

2009年5月26日|

カテゴリー:日本の世界遺産

西芳寺(苔寺)

西芳寺は境内が100種以上の苔に覆われており、俗に「苔寺」ともよぱれる名勝である。奈良時代、聖武天皇の勅願によって行基が創建し、1339年(暦応2)に夢窓疎石を迎え、禅の道場として隆盛をみた。疎石による上下2段で梢成された庭園の美しさは有名。上段は禅的趣のある枯山水式庭圖で、下段は心字形の黄金池を中心にした池泉回遊式庭園となっている。兵火や水害などで諸堂の多くが失われたが、苔に摺われた疎石の石組みが、当時を偲ぱせる。

西芳寺(苔寺)の交通アクセス

タグ

2009年5月26日|

カテゴリー:日本の世界遺産

延暦寺

788年(延暦7)、伝教大師最澄によって創建され、平安遷都後は盾の鬼門(丑寅=北東の方角)を守る皇城鎮護の寺とされた。比叡山の斜面広域に、三塔(東塔、西塔、横川)と多くの堂塔が広がり、東塔には総本堂の根本中堂がある。法然、親鸞、道元、日蓮など、高祖たちをあまた輩出した。
室町時代以降、僧兵の一大軍事拠点となり、織田信長の焼き討ちで焼失。豊臣秀吉から再興の許可を得、徳川家光によって再建された。

延暦寺への交通アクセス

滋賀県大津市坂本本町4220

タグ

2009年5月26日|

カテゴリー:日本の世界遺産

仁和寺

888年〔仁和4〕、宇多天皇によって創建された門跡寺院。寺名は創建時の年号「仁和」から。応仁の乱で焼失するが、江戸時代になって再建された。宮中の紫宸殿を移築した金堂、清涼殿を移築した御影堂など、宮殿建築と仏教建築が融合した独特の様式の建造物を見ることができる。境内の「御室桜」は、京洛の春を飾る花として古来より親しまれてきた。

仁和寺への交通アクセス

タグ

2009年5月26日|

カテゴリー:日本の世界遺産

世界遺産マニアへようこそ

世界遺産マニアのホームページにようこそ。

世界遺産マニアでは、世界中に広がっている文化遺産、自然遺産、複合遺産、危機遺産といった世界遺産の情報を提供しているサイトです。

一覧で世界遺産を目にすることのできるようなサイトを目指しております。

お楽しみいただけたらと思います。

また、現在世界遺産の登録申請に向けて準備をしている地域などもご紹介していきます。

タグ

2009年5月25日|

平等院

『源氏物語』の主人公光源氏のモデルといわれる、左大臣源融の別荘を藤原道長が入手。その子である関白頼通が寺院に改めた際に「平等院」という名称になった。極楽浄土を観想する当時の浄土思想にもとづいてつくられた寺院である。
仏師定朝作の阿弥陀釦来像が安置される鳳凰堂は、中堂の左右に翼楼を備え、鳳凰が翼を広げて阿字池に影を落とすかのような姿で、まさに極楽浄土の現世版といえる。

平等院への交通アクセス

京都府宇治市宇治蓮華116

℡0774-21-2861‎

古都京都の文化財

清水寺

教王護国寺(東寺)

賀茂別雷神社(上賀茂神社)

賀茂御祖神社(下鴨神社)

平等院

タグ

2009年5月17日|

カテゴリー:日本の世界遺産

賀茂御祖神社(下鴨神社)

賀茂建角身命、玉依媛命(賀茂別雷神社の祭神、賀茂別雷神の母)を祀る。神武天皇の代に比叡山の西麓にある御蔭山に降臨、鏑座と伝える。平安遷都後は賀茂別雷神社とともに国家鎮護の神として朝廷に崇敬されてきた。流造りの本殿は1863年の建築。古代山城く京都府南部の|日国名)原野の名残をとどめる境内は約14k㎡の広さで、「糺の森」とよぱれ、森閑とした雰囲気が漂う神域となっている。

賀茂御祖神社(下鴨神社)への交通アクセス

京都府京都市左京区下鴨泉川町59

タグ

2009年5月17日|

カテゴリー:日本の世界遺産

賀茂別雷神社(上賀茂神社)

賀茂別雷神を祀り、神武天皇の代に本社北北西の神山に降臨、鎖座と伝える。上賀茂神社は京都で最も古い神社といわれ、平安遷都植後、国家鎮護の神社として朝廷から崇敬された。賀茂御祖神社(下鴨神社)とあわせて賀茂社ともいう。
1863年(文久3)の造替による流造りの本殿と権殿は、平安時代の様式を伝える。境内では、京都三大祭のひとつである葵祭や、競馬会などの五穀豊穣の神事が行われる。

賀茂別雷神社(上賀茂神社)にある国宝と重要文化財

国宝賀茂別雷神社 本殿(1863年建造)、賀茂別雷神社 権殿(1863年建造)重要文化財
本殿権殿取合廊(1863年頃建造)、本殿東渡廊取合廊(1863年頃建造)、西渡廊(1628年建造)、透廊(1628年建造)、渡廊(1628年建造)、祝詞舎(1628年建造)、塀中門(1628年頃建造)、摂社若宮神社本殿(1628年建造)、東渡廊(1628年建造)、四脚中門(1628年建造)、御籍屋(1628年建造)、神宝庫(1628年建造)、唐門(1628年頃建造)、東御供所(1628年頃建造)、直会所(1628年頃建造)、楽所及び西御供所」(1628年頃建造)、幣殿(1628年建造)、忌子殿(1628年頃建造)、幣殿忌子殿取合廊(1628年頃建造)、高倉殿(1628年頃建造)、楼門(1628年建造)、廻廊(2棟)(1628年頃建造)、摂社新宮神社本殿及び拝殿(2棟)(1628年建造)、摂社片岡神社本殿及び拝殿(2棟)(1628年建造)、片岡橋(明治初年建造「谷重雄」)拝殿(細殿)(1628年建造)、舞殿(橋殿)(1863年建造)、土屋(到着殿)(1628年建造)、楽屋(1628年建造)、外幣殿(1628年建造)、北神饌所(庁屋)(奈良神社拝殿付属)(1628年建造)

賀茂別雷神社(上賀茂神社)の行事

1月16日:武射神事
2月24日:幸在祭
5月5日:競馬会神事
5月12日:御阿礼神事
5月15日:葵祭
9月9日:烏相撲
11月13日:相嘗祭

賀茂別雷神社(上賀茂神社)への交通アクセス

京都府京都市北区上賀茂本山339

タグ

2009年5月17日|

カテゴリー:日本の世界遺産

教王護国寺(東寺)

教王護国寺(東寺)は、平安遷都に際し、国家鎮護の寺として796年(延暦15)に創建された。当初は都の入り口である羅城門の東西に寺が建立されたが、西寺は焼失してしまい、東寺のみが残った。823年(弘仁14)に、嵯峨天皇により弘法大師空海に下賜され、以後、真言密教の活動拠点となった。空海没後、一時期荒廃したが、大師信仰の寺として復興し、現在まで親しまれている。

教王護国寺(東寺)の名前の由来

教王護国寺(東寺)には「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と「弥勒八幡山総持普賢院」の名前が存在する。
宗教法人としての公称は「教王護国寺」、詳しい名前としてはは金光明四天王教王護国寺秘密伝法院という呼ばれ方がある。

教王護国寺の名前の由来とする教王とは王に対しての教育をかたどったものとしての意味が込められており、教王護国寺という名称には、国家の安定定期な意味も込められたその当時の密教文化の表れでもある。
宗教法人としての名称は教王護国寺である。
五重塔のは国宝に指定されておりその正式名称は教王護国寺五重塔と記されている。そのような背景から、最近では教王護国寺が正式名称であるといえる。
京都の人や一般の人にも知られている俗称である東寺という名称は、創建当時から使用されてきた歴史的名称である。
今現在も南大門前の石柱には真言宗総本山 東寺とあり、南大門、北大門、慶賀門などのお寺の名前を書いてあるところには東寺と書かれている。

最近までの文書・記録等には「東寺」という表記が使われていてその呼び名が正式名称であって、「教王護国寺」という呼称は特殊な場合以外には用いられることはない。

教王護国寺という名称は創建以後の文章からも見ることはなく、正式の文書におけるこの寺号の初出は仁治元年(1240年)である。後宇多天皇宸翰の国宝「東寺興隆条々事書」(延慶8年=1308年)、後宇多天皇宸翰「庄園敷地施入状」、豊臣秀吉が2,030石の知行を認めた天正19年(1591年)の朱印状など、寺の歴史に関わる最重要文書にも東寺と書かれている。

教王護国寺(東寺)にある文化財

金堂、五重塔、御影堂、蓮花門、絹本著色真言七祖像、不動明王坐像ほか(国宝)世界遺産

教王護国寺(東寺)への交通アクセス

京都府京都市南区九条町1

タグ

2009年5月17日|

カテゴリー:日本の世界遺産

清水寺

778年(宝亀9)に延鎮上人が開いた憎坊が起源で、平安遷都後間もない798年(延暦17)に坂上田村麻呂によって創建されたのが清水寺である。寺名は、田村麻呂の詠んだ「松風や音羽の滝の清水をむすぶ心はすずしかるらん」という歌に由来する。
「清水の舞台」として名高い懸造りの本堂は、江戸時代の1633年(寛永10)に再建されたもので、釘を使わずに139本の巨大な柱と貫だけで支えられて断崖の上に建つ。

清水寺への交通アクセス

京都府京都市東山区清水1-294

タグ

2009年5月17日|

カテゴリー:日本の世界遺産

紀伊山地の霊場と参詣道

文化遺産/②③④⑥/2004年/日本
太平洋に大きく張り出した紀伊半島のほとんどは、「紀伊山地」とよばれる山岳地帯である。この紀伊山地には標高1000mを超える山々が連なり、古来より修験道の拠点である「吉野・大峯」、熊野信仰の拠点である「熊野三山」、そして空海が開祖の真言宗の根本道場である「高野山」の三大霊場が存在している。

この地が世界遺産に登録されたのは、これら多くの文化遺産が豊かな自然景観と一体となって残されている点と、日本固有の宗教形態のありかたをとどめた、世界に類を見ないものとして高い評価を受けたためである。

吉野・大峯

平安時代末に役行者を開祖に成立した修験道の聖地である。紀伊山地の最北部にあたり、金などの鉱物を産出する金峯山を中心とする「吉野」と、その南の山岳修行の場である「大峯」からなる。根本道場は山上ケ岳(1719m)の頂上にある金峯山寺で、本堂にあたる檜皮葺き屋根の蔵王堂は高さ約28mと、木造建築としては東大寺大仏殿に次ぐ大きさである。本尊である金剛蔵王権現に神木として寄進されたサクラは現在3万本を超え、吉野山の桜として名高い。

熊野三山

熊野三山は紀伊山地の南東部に位置し、「熊野本宮大社」「熊野連玉大社」「熊野那智大社」3社の総称で、古来より熊野信仰の聖地である。それぞれの社は個別の起源をもつが、10世紀後半に本地垂追説にもとづき神仏混淆が進むと、3社は一体のものとして信仰を集めていった。本地垂迹とは、仏教の仏菩薩が日本古来の神の姿となって現れたという神仏習合の考え方である。
世界遺産には、このほか青岸渡寺、補陀洛山寺、那智大滝、那智原始林が含まれる。

高野山

高野山は吉野・大峯の西南西に位置する。弘法大師空海が816年(弘仁7)、標高800m、約3k㎡の山上の平地に建立した金剛峯寺を中心とした霊場で、真言密教の教義を諸堂や仏像で表現する日本初の本格的な密教佃藍である。空海人定後は奥の院が弘法大師信仰の聖地となり、現在も117の子院や塔頭が建ち並ぶ、山上の一大宗教都市となっている。
構成資産には金剛峯寺を中心とした数多くの建造物のほかに山麓にある丹生都比売神社、丹生官省符神社、慈尊院の2社1寺が含まれている。

参詣道

吉野・大峯、熊野三山、高野山の三大霊場を結ぶ道を参詣道といい、「大峯奥駈道」「熊野参詣道」「高野山町石道」に大別される。大峯奥駈道は吉野・大峯と熊野三山を結ぷ約170kmの道で、巌しく険しい修験道の修行の場であった。
熊野参詣道は熊野三山に参脂する道で、熊野古道ともよばれ、京都方面からの中辺路、熊野三山と高野山を結ぷ小辺路、海沿いを行く大辺路、伊勢神宮との間を結ぷ伊勢路からなる。高野山町石道は高野山麓の慈尊院から、弘法大師が眠る高野山奥の院まで、空海が開通させた参詣道である。

登録名称・交通アクセス

登録名称
Sacred Sies and Pilgrimage Routes in the Kii Mountain Range
所在地
奈良県、三重県、和歌山県。
アクセス
金峯山寺へは、大坂・近鉄阿部野橋駅から特急電車で約1時問15分、吉野駅下車。そこからロープウェイ。熊野三山へは、JR新大阪駅から紀勢本線で紀伊田辺駅、細尹勝浦駅、新宮駅などで下車。そこからバスや車。金剛峯寺へは、大阪・南海電鉄なんば駅から特急電車で約1時問30分、極楽橋駅下車。ケープルカーに乗り換え高野山下車。そこからバス。

タグ

2009年5月14日|

カテゴリー:日本の世界遺産

白川郷と五箇山の合掌造り集落

岐阜県の北部と富山県の南部にまたがる飛騨高地。日本が誇る世界遺産の白川郷と五箇山は、その険しい山間を流れる庄川沿いの段丘に形成された集落である。一帯はわが国有数の豪雪地帯で、外界との行き来が大変困難であった。そのため、戦後に電気や道路が整備されるまでは、昔ながらの社会制度や民俗、慣習が色濃く残され、独白の生活文化を育んできたのである。特に、合掌造りとよばれる独特の家屋と周囲の自然環境は、歴史的遺産として後世に伝えるにふさわしい美しさを保つ。

合掌造り

白川郷の集落にある有名な「合掌造り」とは、2本の材木を逆V字形に組み合わせてつくる叉首構造で、切妻造り、茅葺き屋根の家屋をいう。まさに合掌しているように見えることからこの名でよばれるようになった。 60度もの急勾配をもつ屋根の傾斜は、雪を滑り落ちやすくし、雨水をすばやく流し、太陽熱で効率的に屋根を乾燥させて屋根材の茅を腐らせないための工夫である。釘は1本も使わず、太い柱と大小の丸太材の組み合わせでつくられて
いる。各集落には、汪戸時代から続く「組」とよばれる互助組織があり、30~50年に1度行われる屋根の葺き替えは「結」とよばれるこの組の互助作業によって行われる。

合掌造りの家は、一般の日本家屋に比べて規模が大きい。
内部には2~3層の空間が設けられ、そこに20~30人の大家族が住む。大きな三角形の合掌造りは、屋内空間を最大眼に生かす山村生活の知恵なのである。白川郷や五箇山の人々は、厳しい自然条件の下で協力して田畑を耕し、窓のつくられた屋根裏に蚕を飼い、絹糸を得てきたのである。

白川郷と五箇山の合掌造り集落の歴史

白川郷、五箇山というのは江戸時代以前からの呼び名で、現在では岐阜県白川村の「荻町」、富山県南砺市の「相倉」「菅沼」である。白川郷には平安時代末期、平家の落人が住み着いたという伝説が残り、鎌倉時代に浄土真宗の道場も開かれたという古い歴史がある。また、五箇山という地名は庄川本流に沿う赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷と支流の利賀谷の5地域からなることに由来し、古来より平家の落人集落ともいわれてきた。

19世紀末までは、数多くあった合掌造りの家屋であったが、1930~60年代に多くのダムが建設され、いくつもの集落が水没した。特に御母衣ダムが完成した1961年(昭和36)には、白川郷の荘川村の4地区が水底に沈み、多くの合掌造りの家屋が失われていった。戦後すぐには300以上あった合掌造りは、わずか20数年で半分近くに減少してしまったのである。

しかし、1970年代に本格化した保存活動によって、荻町には59棟の合掌造り家屋が残り、1995年(平成7)に相倉集落の20棟、菅沼集落の9棟とともに世界遺産に登録された。

登録名称・交通アクセス

登録名称
Historic villages of Shirakawa - go and Gokayama
所在地
岐阜県大野郡白川村。富山県南砺市相倉、菅沼。
アクセス
JR高山本線高山駅からバスで白川郷まで約1時間40分、JR北陸本線高岡駅からバスで五箇山まで約1時問40分。

タグ

2009年5月14日|

カテゴリー:日本の世界遺産

日光の社寺

文化遺産/1999年/日本
日本の世界遺産の中で文化遺産に位置している日光は男体山など標高2000m級の山々が連なり、古くから神仏習合の聖地で霊場であった。開山は奈良時代後期の766年(天平神護2)で、勝道上人による。以来1200年以上の歴史をもち、江戸時代には初代将軍徳川家康を祀る東照宮が建てられ、代々の将軍や全国の藩主による参拝や、朝廷からの例幣使の派遣などが行われ、江戸暮府の幕藩体制を支える重要な役割を果たしていた。
世界遺産における「日光の社寺」とは、日光山内にある東照宮、二荒山神社、輪王寺の2社1寺の建造物群及ぴ、これらの建造物を取り巻く自然環境をいう。面積は約51万㎡で、周囲には約3.7k㎡の緩衝地域も設けられている。

東照宮

日光の社寺(世界遺産)の中にある現在の東照宮は徳川家康を祀るために、1617年(元和3)に2代将軍秀忠によって造営された社殿を、1636年(寛永13)に3代将軍家光が建て替えたもので、創建当初の社殿はとても質素なものだったとされる。現在の絢爛豪華な社殿は巨樹老木を残すなど、自然の地形を利用して全体の調和をはかる工夫がなされており、「日光を見ずして結構というなかれ」、という当時の人々の礼賛の言葉が残る。
社殿の材料や構造の耐久性などにも、当時の最高の技術が取り入れられたという。本殿や石の間、拝殿、陽明門など国宝や重要文化財合わせて42棟が世界遺産に登録され、特に陽明門は龍、唐獅子、鳥、牡丹など508体の色鮮やかな彫刻で埋め尽くされ、金箔もふんだんに使われた建築美術の粋といえよう。

輸王寺

輪王寺は、日光開山の祖である勝道上人が766年に創建した四本龍寺を起源とし、1653年(承応2)に3代将軍家光の霊廟である、大猷院が造営された。東照官の威光をさまたげないようにという家光の意向で、東照宮よりも小規模で、金と黒を基調に細部の装飾も簡素に建てられたが、目立たない部分には技巧が凝らされている。また、本堂の三仏堂は東日本最大の木造建築物である。

1868年(明治1)に神仏分離令が出され、本来一体であった日光山内は東照宮、二荒山神社、輪王寺の2社1寺に分かれた。輪王寺所有の建物のうち世界遺産に登録されているのは、三仏堂周辺や大猷院周辺の建造物、四本龍寺の観音堂、三重塔など計38棟である。

二荒山神社

二荒山神社は767年(神謹景雲1)に勝道上人が、大己貴命と田心姫命、味すき高彦根命の3神を二荒山麓に祀ったのが起源である。790年〔延暦9〕には本宮神社が建てられて、山岳信仰の拠点となった。
東囲宮の西に位置する本社のほか、男体山頂には奥宮、中禅寺湖畔には中宮祠があり、その神域は日光連山を含め34k㎡に及ぶ広大なものである。

東照宮創建後は、地主神として幕府の手厚い庇護を受けた。ハ棟造りとよばれる建築様式の本殿など、現在の建物は1619年(元和5)に建て替えられたもので、日光山内最古の建造物である。
朱塗りの神橋をはじめ23棟の建造物が世界遺産に登録されている。

タグ

2009年5月12日|

カテゴリー:日本の世界遺産

白神山地

自然遺産/(⑨/1993年/日本
ユネスコ世界遺産に登録されている出羽山地の北端部に位置する白神山地は、青森県と秋田県にまたがる山岳地帯で、最高峰の向白神岳(1243m)をはじめ、白神岳(1235m)、ニツ森(1086m)など標高1000m級の山々が連なっている。
世界遣産に登録されたのは、その中心部分の約170k㎡で、一帯を覆うブナの原生林は世界最大級といわれる。このブナの純林には約500種という豊富な植物が分布しており、豊かな植生がニホンカモシカやニホンザル、ツキノワゲマなどの哺乳類やイヌワシ、クマゲラ、クマタカなど絶滅が危惧される鳥類、そして2000種以上の昆虫など、貴重な生き物の遺産とでも呼べるような多種多様な生き物たちの命を育んでいる。

また「緑のダム」とよぱれるほど保湿性の高いブナ林からは、幾筋もの川の流れが谷を深く剖り、多くの滝が美しい景観をつくりだしている。特に青森県西目屋村の「暗門の滝」と、鯵ヶ沢町の「くろくまの滝」は有名で、遊歩道も整備されており、比較的容易に探勝できる。

登録名称
Shirakami-Sanchi
所在地
青森県西津軽郡深裏町、鯵ヶ沢町、中津軽郡西目屋村。秋田県山本郡藤里町。
アクセス
JR奥羽本線JR五能線で十二湖駅、八森駅など付近の駅へ。そこからはバスや車を利用。
備考
核心地域への入山は秋田県側からは禁止、青森県側からは入山の届け出によるルート指定という入山規制がある。

タグ

2009年5月 9日|

カテゴリー:日本の世界遺産

知床

知床として世界遣産に登録されたのは、北海道東端に位置する知床半島の陸域と、知床国立公園に隣接する海域
(海岸線から3km)、総面積711k㎡(そのうち海域が224k㎡)。
世界遺産の知床はアイヌ語で「土地の先端」を意昧し、最高峰の羅臼岳(1661m)をはじめ硫黄山(1562m)など標高1500m級の火山群が縦走し、トドマツ、エソマツなどの針葉樹や、ミズナラ、シナノキなどの落葉広葉樹の原生林が広がる。またオホーツク海の北辺で生まれる流氷が接岸する世界最南端の地であり、流氷が運んでくるオキアミなどの豊富なプランクトンにより、海陸で豊かな動物相を形成している。
絶滅に瀕するトドやアザラシなどの海生哺乳類が生息し、希少種のオオワシやオジロワシなどの魚食性の大型鳥類がロシアから飛来して越冬する。河川にはサケやマスなどの魚類が遡上し、森にすむヒグマやキタキツネなどの哺乳動物や、シマフクロウなどの鳥類を支えている。
日本の世界遺産の知床の素晴らしさは、この「陸海一休の多様な生態系」にあるが、沿岸における漁業や、河川でのサケ類の遡上を妨げる50を超えるダムなど、残された課題は大きい。

知床の交通アクセス

登録名称:Shiretoko
所在地:北海道斜里郡斜里町、目梨郡羅臼町
アクセス
女満別空港からバスでJR網走駅まで約30分、JR網走駅からJR知床斜里駅まで約40分。斜里からウトロまでバスで約50分。もしくは女満別空港からウトロまで知床直通バスで約2時間。
備考
知床方面の道路は冬期通行止めや夜間規制、自動車通行規制か行われる路線があり、天候などの影響による状況などについては詳細情報での確認が必要です。


大きな地図で見る

タグ

2009年5月 9日|

カテゴリー:日本の世界遺産

石見銀山遺跡とその文化的景観

世界遺産に登録されている石見銀山遺跡とその文化的景観は文化遺産/②③⑤/2007年/日本

島根県のほぽ中央、大田市大森町を中心に分布する石見銀山遺跡は、

①銀鉱山跡と鉱山町

②銀山街道

③銀の積み出し

世界遺産に登録されているその場所は港と港町からなり、その面積は4.42k㎡(東京ドーム95個分)に及ぶ。なかでも銀が生産されていた銀鉱山と鉱山町大森の町並みは、石見銀山の歴史と人々の生活を、時を経た今も鮮やかに伝えている。世界が注目した銀の島『日本』

石見銀山の開発は、1527年(大永7)、博多の豪商神屋寿禎によって本格的に始められた。 1533年(天文2)、寿禎が導入した朝鮮伝来の新しい銀の精練技術「灰吹法」は、銀の飛躍的な増産をもたらし、日本のシルバーラッシュを実現する。


当時の日本は、群雄割拠の戦国時代出雲(島根県)の尼子氏、安芸(広島県)の毛利氏、周防(山口県)の大内氏が莫大な軍資金を得るために、宝の山「石見銀山」の争奪戦を繰り広げていた。矢滝城や石見城、山吹城などの山城は、釧山争奪のために築かれた城である。

1590年(天正18)には豊臣秀吉が天下を統一。秀吉は3大名の争いに勝利をおさめた毛利氏から、
莫大な運上銀をおさめさせていた。

日木にキリスト教を伝えた宣教師のフランシスコ・ザピエルは、1552年C天文21)、奏箇のなかで、日本を「銀の島」と紹介している。また、1568年【永禄11】にポルトガルで製作された日本地図は、石見(島根県大田市)の位置にポルトガル語で「銀鉱山王国」と記している。「灰吹法」の導入によって、世界も認める産銀国に成長した日本は、16世紀後半-17世紀初めにかけて海外に多量の石見銀を輸出しアジアとヨーロッパ諸国を貿易で結ぶ原動力となっていくのである。

世界遺産で培われたされた最高峰の頭脳と技術

1600年(慶長5)、関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、石見銀山を幕府の主要財源とするため直轄地とし、技術導人をはかる。鉱山は、鉱物資源が豊富なだけでは開発できない。
地中深く掘るには、高度な知識と技術が不可欠だった。
たとえば鉱床の発見には、地質学や本草学が必要とされたし、採鉱には測量学、製錬には化学など、多岐にわたる学問が求められた。さらに、各種の土木技術をはじめ、排水を浪み上げる水揚げポンプ、換気に用いる唐箕など、優れた技術が開発を支えた。その結果、石見銀山の年間産出量は1万貫(約38t)に及び、日本は世界の産出銀の3分の1を占めるに至った。

だが、17世紀後半には産出量が激減、明治期に銅を主体として再開発されたが、1923年(大正12)ついに閉山する。鉱山としての石見銀山は幕を下ろしたが、往時の姿をそのままとどめる産業遺産は今、世界遺産として覚醒したのである。

銀山柵内
かつて鉱山町は、柵で回まれていた。徳川幕府が、直轄地としての支配体制を確立するため、棚を設けて出入りする人や物資などすべてを管理していたためである。

日本の世界遺産である石見銀山棚内は、当時の銀生産の現場であり、中心地でもあった。現在も石見銀山遺跡の中核を担っており、ここには16~20世紀に至る銀の生産活動をはじめ、生活や流通、信仰にまつわる遣跡や遺物が、ほぱ完全な形で残されている。
「間歩」とよばれる坑道もそのひとつ。
世界遺産の石見銀山の山中には600か所ほどの坑口が確認され、隣接した平坦な地には、製錬までの作業と生活が営まれた職住一体の空間が広がっていたという。
石見銀山の最盛期の人口は、「銀山旧記」によると20万。17世紀半ぱの江戸の人口が約30万だから、その規模の大きさには驚かされる。

大森銀山重要伝統的建造物群保存地区

石見銀山に隣接する大森は、銀山の隆盛によって形成された鉱山町。江戸時代初め、2代目奉行竹村丹後守が建設にとりかかり、代官所を現在の地に移したことを機に、政治経済の中心として発展していった。

川沿いの谷間に連なる全長2.8kmの町並みは、代官所をはじめ武家屋敷、町家、社寺などが混在し、変化に富んだ景観を見せる。なかでも一般公開されている熊谷家の建物は、豪商の地位や富裕層の生活を語ってくれる。大森は江戸の名残をとどめる町として、ふたたび注目を集めている。

銀山街道

世界遺産である石見銀山と積み出し港とを結ぶ街道を「銀山街道」といい銀や銀鉱石、諸物資の輸送に利用された。
銀山街道には、鞆ヶ浦港に至る全長7kmの「鞆ヶ浦道」と沖泊港に至る全長12㎞の「温泉津沖泊道」のふたつがある。鞆ヶ浦道は、銀山柵内から日本海に出る最短の搬出路として知られ、温泉津沖泊道には、石畳や土橋、石仏などが残る。

鞆ヶ裏、沖泊、温泉津

鞆ヶ浦は、16世紀前半から中頃、銀や銀鉱石を九州の博多に積み出した港で、中世の港をしのばせる。天然の良港である沖泊は、毛利氏が石見銀山を支配した16世紀後半、銀の輸送や物資の補給、軍事基地として機能した。
銀山の外港として発展した温泉町が温泉津。全長800mの町並みは、江戸時代前期の配置とほとんど変わらない。

石見銀山遺跡とその文化的景観への交通アクセス


大きな地図で見る

タグ

2009年5月 8日|

カテゴリー:日本の世界遺産